「包丁で脅された」公正証書は取り消せる?離婚慰謝料1950万円の行方 #裁判例解説

「明日は印鑑証明書と登記の書類をもって公証人役場に行け。そして手続をしろ」
刃渡り20センチの包丁が首元に突きつけられ、夫は恐怖で声も出なかった。
妻が連れてきた見知らぬ男の右手には入れ墨のようなものが見える。「それをやらない限り文書偽造ということで逮捕される。裁判もやる。そうなったら会社は首になる」
妻の冷たい声が追い打ちをかける。
翌日、公証人役場で夫は「脅迫されているんです」と訴えて強く抵抗したものの、最終的には1950万円の支払いを約束する公正証書に署名した。
その後、夫は強迫による取消しを主張して裁判を起こしたが…。
※東京地判令和5年6月27日(令和4年(ワ)11296号)をもとに、構成しています
この裁判例から学べること
- 公証人の説明を受けた上で自ら選択して合意した場合、強迫による取消しは認められにくい
- 公正証書作成時の公証人の確認手続きが、合意の任意性を示す重要な証拠となる
- 養育費を含む趣旨と解される場合、離婚慰謝料が高額でも暴利行為とはいえない可能性がある
夫婦が話し合いによる離婚(協議離婚)をする際、離婚の条件について公正証書を作成しておくことが推奨されます。
公正証書とは
公証役場の公証人が作成する書面のことで、強制執行認諾文言がついていれば、いざという時に大きな力を発揮します。
たとえば、万一、元配偶者が離婚慰謝料などを支払ってくれない場合、その公正証書を使って強制執行(預金口座の差し押さえなど)をして、取り立てができるというメリットがあります。
しかし、公正証書を作成したものの、後になって「脅迫されて作らされた」として取消しを求める紛争も存在します。
今回ご紹介する裁判例は、夫が妻に無断で離婚届を偽造・提出し、それを契機に1950万円という高額な慰謝料の支払いを約束する公正証書を作成したという、極めて特殊なケースです。
この事例を通じて、どのような場合に強迫による取消しが認められるのか、公正証書作成時の公証人の役割、離婚慰謝料の相場と暴利行為の関係について、詳しく解説していきます。
📋 事案の概要
今回は、東京地判令和5年6月27日(令和4年(ワ)11296号)を取り上げます。
この裁判は、夫が妻に無断で離婚届を偽造して提出した後、1950万円の慰謝料を支払うと約束する公正証書を作成したものの、後にこれを強迫によるものとして取り消し、慰謝料債務の不存在確認等を求めた事案です。
- 当事者:
原告(夫):令和2年10月に婚姻。令和3年12月に妻に無断で離婚届を提出
被告(妻):原告の妻。妊娠中に無断で離婚届を提出されたことに激怒し、慰謝料2000万円の支払いを求めた - 請求内容:
慰謝料1950万円の債務不存在確認及び抵当権設定登記の抹消
婚姻生活の経緯
- 令和2年10月に夫婦が結婚
- 令和3年1月頃に妻の母親の実家に転居。夫婦仲が悪化し、けんかが増える。妻が離婚届にサインして夫に渡すこともあった
- 令和3年5月に夫がマンションを購入
- 令和3年6月に夫が単身でマンションに転居。同月、夫が妻の求めに応じて精子を提供
- 令和3年9月に妻がマンションに転居し、夫婦で同居再開。同月、再度夫が精子を提供
- 令和3年10月に妻が体外受精により妊娠。しかし再び夫婦関係が悪化
- 令和3年11月に妻が夫に妊娠を伝える
🔍 裁判の経緯
「区役所から連絡が来て、離婚届が出されていることを知ったんです。私、離婚届なんて書いてません!夫が勝手に私の名前を書いて出したんです!」
妻は激怒した。電話で夫を問い詰めると、夫は偽造を白状した。
「離婚届は偽造だ。警察に言う。会社も辞めさせてやる。嫌なら2000万円払え」
当時、妻は妊娠中だった。夫は2000万円を支払う旨の念書を書いて妻に渡し、その一部として50万円を妻に支払った。
数日後、事態は急変した。
「妻が見知らぬ男を連れてきたんです。右手に入れ墨のようなものが見えました。その男が、無言で私の腹を右こぶしで殴ったんです。それから、刃渡り20センチくらいの包丁を私の首元に当て、公証人役場で手続きをしろと脅してきたんです…」
翌日、夫は妻と共に公証人役場を訪れた。
「公証人の先生に、『脅迫されているんです。公正証書なんて作れません』と必死に訴えました。でも妻は『公正証書を作らないなら、家庭裁判所で手続きを進めるだけだ』と言うんです」
公証人は夫に丁寧に説明した。
「本当に同意できないのであれば、公正証書は作成できません。誰も強制することはできません」
夫はしばらく考えた。家庭裁判所での手続き、警察への通報、会社での立場…。
そして、最終的に決断した。
「わかりました。1950万円の支払義務があることを認めます」
こうして、公正証書が作成された。
公正証書の内容
第1条(離婚の確認)
令和3年12月6日、有効に離婚を合意し、同日区役所に離婚届を提出したことを相互に確認する。
第2条(慰謝料)
夫は、妻に対し、離婚に伴う慰謝料として、金1950万円(既払分50万円を除く)の支払義務があることを認め、マンションが売却された日から30日以内に支払う。
第3条(不動産の売却)
夫は、速やかに、婚姻期間中に取得した夫名義のマンションを売却する。
第4条(抵当権の設定)
夫と妻は、第2条の債務を担保するため、夫所有のマンションに抵当権を設定する。
公証人は、金額に将来生まれる子の養育費が含まれるのか確認しようとしたものの、夫が過剰に反応したため、名目は慰謝料とされた。
しかし、後日、夫は弁護士を立て、公正証書の取消しを求めて債務不存在確認訴訟を提起した。
「やはり納得できません。あれは脅迫されて作らされたものです。取り消します」
※東京地判令和5年6月27日(令和4年(ワ)11296号)をもとに、構成しています
⚖️ 裁判所の判断
判決の要旨
裁判所は、強迫も暴利行為も認められないとして、原告(夫)の請求をいずれも棄却しました。
主な判断ポイント
1. 包丁による脅迫の事実は認められない
原告は、被告が連れてきた男に包丁で脅されたと主張しましたが、裁判所は「これを認めるに足りる証拠はない」と判断しました。
目撃者、傷害の証拠、警察への被害届など客観的な証拠が何も提出されなかったことが影響したと考えられます。
2. 公証人の説明と熟慮の機会があった
裁判所が特に重視したのは、公正証書作成時の経緯です。
原告は公証人に「脅迫されている」と訴え、当初は抵抗していました。
しかし公証人が「真に同意できないなら作成できない」と説明して手続きを一旦中断し、原告が熟慮した上で最終的に「真意に基づく」ことを確認してから公正証書を作成しています。
裁判所は、この経緯から「原告なりに、本件支払合意に応じて債務を負担することの不利益とそれにより得られる利益を十分に衡量したうえで、自らの選択として本件支払合意に至った」と認定しました。
3. 暴利行為にも該当しない
予備的請求として、原告は「離婚慰謝料はせいぜい250万円が相場であり、1950万円は暴利行為だ」と主張しました。
しかし裁判所は、公証人が金額に養育費が含まれるかを確認しようとしていた経緯や、妻が別途養育費を請求していない点を踏まえ、実質的に養育費も含む趣旨と判断し、「その額が著しく不当なほどに高額であるとまではいえない」と結論付けました。
👩⚖️ 弁護士コメント
公正証書が持つ「矛と盾」の機能
本件は、公正証書が持つ二つの重要な機能を示しています。
公正証書に強制執行認諾文言がついていれば、相手方が約束を守らない場合、裁判を経ずに強制執行を行うことができます。
これは債権者にとって強力な「矛」となります。
本件のように、公正証書の作成後に相手方から「強迫されていた」「無効だ」と争われた場合でも、公正証書は「真に合意していたこと」を証明する強力な「盾」となります。
公証人という公的な専門家が当事者の意思を確認した事実は、極めて高い証明力を持つのです。
公正証書は、強制執行をおこなう際だけではなく、離婚の条件を証明し、後から争われた際に自分を守る盾としても機能するのです。
公正証書が無効となる可能性があるケース
公正証書の有効性が問題になるケースは非常にまれですが、以下のような場合には無効となる可能性があります。
意思能力の欠如
認知症などで、自分の意思表示の内容を理解したり、意思表示をすることでどのようなことが起きるのか理解できない方が公正証書を作成した場合、公正証書が無効となる可能性があります。
このパターンは、公正証書遺言などで問題になりやすいです。
暴利行為(民法90条)
相手の心理的な窮状に乗じて、過当な利益を要求するような合意が締結された場合は、公序良俗違反として無効になります。
強迫による意思表示(民法96条1項)
相手を脅して合意を締結させた経緯があれば、その合意は取り消し得るものとなります。
本件では、原告が「包丁で脅された」「警察に通報すると脅迫された」と主張しましたが、いずれも強迫とは認められませんでした。
強迫による取消しが認められるためには、単に「怖かった」「プレッシャーを感じた」というだけでは不十分です。相手方の行為が「違法な害悪の告知」であり、それによって意思決定の自由が奪われたといえる必要があります。
このような重大な主張をする場合、診断書、警察への被害届、目撃証言など、客観的な証拠を確保することが極めて重要です。
公証人の役割と公正証書の証明力
公正証書は、公証人という公的な立場の専門家が、当事者の意思を確認した上で作成する公文書です。
そのため、公正証書の記載内容は高い証明力を持ちます。
本件から得られる教訓として、公正証書を作成する際には以下の点に注意すべきです。
公正証書作成時の注意点
- 内容を十分に理解する
公正証書に記載される内容を完全に理解し、納得した上で作成すること - 履行可能性を検討する
約束した内容を本当に履行できるかを慎重に検討すること - 不安があれば専門家に相談
公正証書作成前に弁護士に相談し、内容の妥当性や法的効果を確認すること - 各項目を明確にする
慰謝料、財産分与、養育費などを明確に区別して記載すること - 証拠を残す
もし本当に強迫されている場合は、その証拠(録音、診断書、警察への被害届など)を確保すること
公正証書は一度作成すると取り消すことが極めて困難です。作成前の慎重な検討が不可欠といえるでしょう。
離婚慰謝料の相場と養育費の関係
慰謝料という費目のみで見れば、通常は200万円~250万円程度のケースが多いのではないでしょうか。
離婚する配偶者に対して請求できるお金の内訳としては、慰謝料、財産分与、養育費など様々なものがあり、これらを合計すると2000万円前後になる事例もあります。
本件の高額な慰謝料について、裁判所は、支払いに養育費の要素も含まれると解釈し、その場合は金額が著しく不当とはいえないと判断しました。
このように、離婚時の金銭的取決めでは、名目が慰謝料であっても、実質的には養育費や財産分与の要素が含まれている場合があります。
後のトラブルを避けるため、公正証書作成時には、各項目を明確に区別して記載することが望ましいでしょう。
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強迫による意思表示の取消し(民法96条)
民法96条は、強迫による意思表示は取り消すことができると規定しています。
強迫とは、相手方またはその関係者が、違法な害悪を告知することによって、相手に恐怖心を生じさせ、その結果として意思表示をさせることをいいます。
強迫が認められるための要件
- 違法な害悪の告知があること
- それによって恐怖心が生じたこと
- その恐怖心によって意思表示がなされたこと
本件のように、「警察に通報する」「裁判をする」という告知は、それが正当な権利行使である場合は違法な害悪の告知には該当しません。
また、強迫の事実を主張する側に立証責任があります。客観的な証拠を準備することが重要です。
暴利行為(公序良俗違反)
暴利行為とは、相手の窮迫や無経験といった弱い立場につけ込み、著しく過大な利益を得る契約を指し、民法90条の公序良俗違反として無効となります。
暴利行為が成立するには、主観的要素と客観的要素の双方が必要です。
暴利行為が成立するための要件
- 主観的要素
相手が窮迫、軽率、無経験、従属・抑圧状態にあるなど、合理的判断が困難な状況にあること、またはその状況を利用したこと - 客観的要素
契約内容が著しく不均衡で、一方に過大な利益を与えるか、相手方に著しい不利益を及ぼすこと
本件で裁判所は、確かに金額は高額だが、養育費も含まれていると解釈できること、夫が熟慮の上で合意したことなどから、暴利行為には該当しないと判断しました。
公正証書の証明力
公正証書とは、公証人が作成する公文書です。
公証人は、当事者の意思を確認し、法律的に適切な内容であることを審査した上で作成します。
公正証書には以下のような効力があります。
- 高い証明力
公文書として、記載内容が真実であることが推定されます - 執行力
金銭債務について、裁判を経ずに強制執行ができる執行証書を作成できます - 保存の確実性
原本が公証役場に保管されるため、紛失や改ざんの心配がありません
本件のように、公正証書作成後に「強迫されていた」と主張しても、公証人が当事者の意思を確認した事実があるため、その主張を覆すことは極めて困難です。
🗨️ よくある質問
Q. 公正証書を作成した後に内容を取り消すことはできますか?
取り消しは非常に困難です。
公正証書は、公証人が当事者の意思をしっかり確認した上で作成する公的な文書であり、法的な証明力が非常に高いものです。
例外的に無効となるケースもありますが、実務ではごくまれです。
本件でも、夫は「包丁で脅された」「警察に通報すると脅迫された」と主張して強迫による取消しを求めましたが、裁判所はこれを認めませんでした。
公正証書を作成する際には、本当に同意できる内容か、将来にわたって履行可能な内容かを十分に検討することが欠かせません。不安がある場合は、公正証書作成前に弁護士へ相談することをおすすめします。
Q. 離婚慰謝料の相場は?高額すぎる場合は無効にできますか?
離婚慰謝料の相場は、有責性の程度や婚姻期間などによって幅がありますが、慰謝料という項目だけで見れば、一般的には200万円から250万円程度に収まるケースが多いといえます。
ただし、離婚時に配偶者へ請求できる金銭には、慰謝料のほか、財産分与、養育費など複数の項目が存在し、それらを合計すると2,000万円規模になる事例もあります。
本件のように、名目上は慰謝料であっても、実質的には養育費や財産分与の要素が含まれている場合、高額であっても不当とは評価されにくい傾向があります。
離婚時の金銭的な取り決めを行う際には、慰謝料・財産分与・養育費・年金分割などの項目を必ず区別して明記し、それぞれの性質を明確にしたうえで合意することが重要です。
Q. 相手が「警察に通報する」「裁判をする」と言ってきた場合、これは脅迫にならないのですか?
原則として、正当な権利行使を告げる行為は脅迫には該当しません。
本件のように、離婚届の偽造という違法行為があった場合、それを理由に「警察に通報する」と伝えることや、「家庭裁判所で手続きをとる」と告げることは、違法な害悪を示す行為とは評価されません。
ただし、実際には違法行為が存在しないにもかかわらず「警察に通報する」と告げる場合や、法的根拠のない不当な要求と組み合わせて「裁判をする」と伝える場合には、脅迫や恐喝に当たる可能性があります。
相手が法的措置を示唆してきたときには、その主張に法的根拠があるかどうかを冷静に見極め、判断が難しい場合は弁護士に相談することをお勧めします。
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高校卒業後、日米でのフリーター生活を経て、旧司法試験(旧61期)に合格し、アトム法律事務所を創業。全国15拠点を構えるアトム法律グループの代表弁護士として、刑事事件・交通事故・離婚・相続の解決に注力している。
一方で「岡野タケシ弁護士」としてSNSでのニュースや法律問題解説を弁護士視点で配信している(YouTubeチャンネル登録者176万人、TikTokフォロワー数69万人、Xフォロワー数24万人)。
保有資格
士業:弁護士(第二東京弁護士会所属:登録番号37890)、税理士、弁理士
学位:Master of Law(LL.M. Programs)修了
