岡野勲税理士事務所
岡野 勲
岡野勲税理士事務所
税理士
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国税での経験を活かし、相手を思いやる眼差しで。企業の未来を支える税務の伴走者

はじめまして、岡野勲と申します。1942年に京都府の農家の長男として生まれ、高校卒業後の1961年に国税局に採用されました。以来39年間、税務署では徴収と法人税調査を、国税局では調査部で大企業や商社の税務調査を担当し、税務署長を最後に2000年に退官しています。 国税での仕事を通じて学んだのは、税法は厳格に適用すべきである一方で、その運用には実態に即した柔軟さが求められるということです。退官後は同年に税理士登録を行い、大阪市中央区に事務所を構え、企業の税務顧問や税務調査への対応を中心にお引き受けしております。 現在は上場企業の社外取締役も務めています。調べる側と調べられる側、その双方を経験した者として、企業が安心して申告と向き合える環境をつくることを使命としています。

岡野 勲の強み

私の強みは、税務行政の現場を長年経験してきたことです。 税務署の徴収部門からキャリアをスタートし、法人税調査に転じたのち、国税局の調査部で通算約20年を過ごしました。 大企業や商社の調査を担当するなかで、海外の税務当局と連携した調査にも携わっています。申告書に並ぶ数字だけを見るのではなく、その数字がどのような取引や背景から生まれたのかを正確に読み解くこと。調査担当者から税務署長まで、立場を変えながら現場で確かめてきたこの視点と姿勢を、いまは企業の側に立って生かしています。上場企業の社外取締役として経営の監督に関わる経験も、税務の助言に幅を与えています。

Interview

元税務署長。国税局調査部に通算約20年在籍し、現在は税理士として活動しながら上場企業の社外取締役も務める岡野先生。京都の農家に生まれた少年が税務行政の要職を歩き、いま企業の側に立つまでの39年と、その後に迫る。

農家の長男から国税へ

岡野先生は1942年、京都府の農家の長男として生まれた。農家の長男が家業を継ぐのが当然とされた時代だったが、両親は進学にも就職にも反対しなかったという。福知山高校の商業科に進み、そろばんと簿記を日課のように学んだ。

税の道に進んだきっかけを尋ねると、返ってきた答えは意外なものだった。「親戚に国税局に勤めている人がいて、一度試験を受けてみろと言われたのがきっかけでした」。高校3年の夏、その話を聞いたときには申込期限まで1週間を切っていた。担任の自宅に駆け込んで願書を出し、過去問に取り組んで試験に臨んだ。「強い動機があったわけではないが、言われたとおり受験をしたら合格していた」と当時を振り返る。合格者140名のうち74番、ちょうど真ん中だった。

背中を押したのは母親の価値観だった。堅い職業に就くのが一番。当時の地方において公務員は堅実な選択肢であり、「一般の会社へ行くより、公務員は非常にいい職場だ」という周囲の勧めもあって、そのまま進路が決まった。

1961年4月、国税局に採用されると、全寮制で4人一部屋、1年間の研修が待っていた。布団は自宅から送るなど生活環境も大きく変わるなか、民法も刑法も原価計算も初めて触れる分野ばかりだった。商業科で簿記2級を取っていたことだけが救いで、それ以外は仲間とともに机に向かう日々だったという。

調査官として

研修を終えて赴任した京都府内の税務署で、最初に担当したのは徴収だった。誰にいくらの債権があるかを管理し、滞納があれば差押えにも向かう。国税のなかでもタフな仕事だったが、納税者と最も近い距離で向き合う4年間でもあった。

転機は自ら求めた。「入った以上は調査がしたい」と願い出て、1966年、大阪府内の税務署で法人税調査に転じる。念願の現場に立ってからは、調査が楽しくてたまらなかったという。1971年には国税局調査部へ移り、大企業や商社の調査を担当するようになった。

大きな企業への調査ともなれば、4〜5名のチームを編成して挑んだ。8月にスタートした調査が、冬のコートが手放せない季節になるまで続くことも珍しくなかった。そうした現場で、高卒で入局した岡野先生の前に立ちはだかったのが、商社の資料に並ぶ横文字や英文の壁だった。辞書を片手に向き合うなかで、問題点を的確に見抜く先輩に「どう読み解けばいいのか」と尋ねると、次のような助言が返ってきた。「手紙なんかでも、読んでいたら数字が書いてあるだろう。その前後をよく読め」。数字の周辺にある言葉が、その数字の本来の意図を語っている。現場で叩き上げられたこの視点が、調査官としての大きな武器になった。

その視点が国境を越えて実を結んだこともある。調査部の主査だった1980年代頃、ある企業と米国企業とのライセンス契約をめぐる調査で、米国内国歳入庁(IRS)に反面調査を依頼した。依頼するだけでは申し訳ないと考え、米国側企業への支払いを示す証拠を添えて送ったところ、その情報が米国側での課税につながり、IRS長官から表彰状が届いた。調査部では初めての出来事だったという。「魚釣りをしていて餌だけ取られた感じだった」と本人は笑うが、表彰状は今も大切に保管している。

数々の現場を経験してきた岡野先生だが、その原点として繰り返し口にするのは、研修の最初に教育官から受け取った教えである。「税務署員は強くなければならない。税法に基づいて厳しい調査をしなさい。ただ、その適用にあたっては柔軟性を持たせよ」。厳しさと柔軟性という、一見すると相反する二つを同時に持つこと。税務職員である前に一人の人間であり、徹底的に潰すことだけが正義ではない。細かな形式的相違をすべて機械的な課税につなげるのではなく、時には指導を行い、正しく導いていく。小規模な事業者の調査で、法の厳格さと適用の柔軟さの両立を考えさせられた経験が、この教えを自分のものにしたという。

厳しい調査をしても、納税者から恨まれることはなかった。大阪府内の税務署で統括国税調査官を務めた頃は、まさにその教えを体現し、現場の第一線で遺憾なく手腕を発揮していた時期だったと振り返る。

幹部として組織をつくる

1987年、国税局の会計課に課長補佐として移った2年間が、岡野先生にとって大きな転機になった。それまでとは打って変わって、税金を集めるのではなく、予算を適正に執行・管理する側の部署である。そこには、会計検査院の検査が入る。「今度は調査を受ける側になるわけです」。予算の使途や金額の妥当性を細部まで問われるその検査は、想像以上に緊張を強いられるものだった。

その2年間を振り返り、岡野先生は「調査を受けるのは、やっぱり大変でしんどかった」と語った。調べる側に長くいた人間が、初めて調べられる側のプレッシャーを味わったのだ。調査を受ける側は、たまたまそのポストにいるだけで、好きでその立場にいるわけではない。自らが受ける側に立った原体験があるからこそ、その後、税務署の副署長、税務署長、国税局の課長職と幹部の道を歩むなかで、「調査を受ける人の身になって、相手の立場を思いやった調査をしなさい」と、部下に常に指導し続けてきたという。

そうした真摯な指導の一方で、幹部として彼がもう一つ大切にしていたのが組織の「空気づくり」である。 人生のモットーは、遊びも仕事も楽しく。国税局調査部の課長時代には、中止されていたソフトボール大会を復活させ、若手を中心にした忘年会を企画した。組織の空気づくりを大切にしていたのだ。特別国税調査官のもとで働いていた頃には、上司から「幹部になるなら宴会での歌は必須」と言われた。音痴の家系ながら、カラオケを努力で身につけたという。

そうして持ち前の人柄で組織を牽引しながら、 1995年と1999年の2度、税務署長を務め、2000年7月、39年にわたる国税での勤務を終えて退官した。退くとき、調査部の先輩からかけられた言葉がある。「君は出世するから、退職後は業界の世話役をして恩返しをしなさい」。国税で培ったものを自分のためだけに使うのではなく、業界全体に還元してほしい。そういう意味だった。

その言葉どおり、岡野先生は退官後、二つのOB会で会長を歴任。ひとつは税務署ごとに支部が置かれている国税OBの会で、会員300人ほどを抱える東桜美会の会長を2年間務めた。もうひとつは、自身が長く在籍した国税局調査部のOB会「調和会」で、こちらは会長を6年間務め上げた。いずれもOBであれば誰でも参加できる集まりである。人と人をつなぐ役割を、先輩の教えを胸に引き受けてきたのだ。

税理士として、いま

退官した2000年の8月、岡野先生は税理士登録を行い、同年に大阪市中央区で事務所を解説。国税時代の後輩たちに声をかけて事務所に迎え入れ、チームで対応する体制を整えた。

相談を寄せるのは、企業の経営者や経理の担当者が中心である。内容は、この支出は経費として認められるのか、この処理で問題はないのか、といった日々の判断に関わるものが多い。長く法人税調査の現場を見てきたからこそ、その場で答えを返せるケースが数多くある。調査への対応も同じ延長線上にある。税務署がどのような手順で調査に臨み、どこを確認していくのか。その流れを内側から知っているからこそ、企業がいつ何を準備すればよいかを前もって伝えられる。

厳しく調べる一方で、企業側の声や実情にも真摯に耳を傾ける姿勢は、在職中から多くの信頼を集めていた。退官後、企業の経営陣から監査役などへの就任依頼が多く寄せられたのも、そうした厚い信頼の証だろう。現在も上場企業の社外取締役を務めるなど、長年の知見は企業経営の現場でも活かされている。

こうした税務行政への多大な尽力と功績が高く評価され、2013年春、瑞宝小綬章を受章した。財務省での伝達式のあと、皇居で当時の天皇陛下に拝謁している。長年国税職員として苦労したご褒美ではあるが、「私一人ではなく家族全員で頂いたもの」と岡野先生は語る。

仕事観と後進へのメッセージ

若い専門家に伝えたい持論があるという。それは、組織を支える仕事を知らずに、人の上に立つ重責は務まらないという考え方だ。自身が署長という大役を任された際にも、机掃除やお茶汲みといった下積みを経験し、現場を知っていたことが大きな糧になったという。

人生の指針として掲げるのは「周りの人に感謝して報いる」という言葉だ。もうひとつ、「常についている、持っている人生」という言葉も大切にしている。親戚の一言で受けた試験、先輩から受け取った助言、受ける側に回った会計課の2年間。振り返れば、節目のたびに人に恵まれてきた。その恩を、いまは業界と次の世代に返していきたいと考えている。

まとめ

80代となったいまも、岡野先生は現役である。一日8千歩から1万歩を歩き、ゴルフとカラオケ、温泉巡りを「体力の維持と頭の体操を兼ねた三本柱」にしている。ゴルフのベストスコアは82。海外へのゴルフ旅行も続けており、ホールインワンとエイジシュートの達成を今も狙っている。もう一つの趣味であるカラオケでも、月刊誌で新曲を仕入れて披露するなど探求心は尽きない。

兵庫県加東市のレークスワンカントリー倶楽部では、15年ほどにわたって理事長を務めており、現在もその大役を担っている。こうしたバイタリティや負けん気は、若い頃からのものだ。京都府内の税務署にいた頃、若手の合唱サークルで富士登山に出かけ、皆が八合目で仮眠している間に一人だけ先に登頂してしまったというエピソードがある。

目標は「元気年齢90歳」。京都の農家に生まれ、国税の門をたたき、39年を税務行政に費やした。いまは納税者の側に立ち、上場企業の経営を見守る視点も加わった。その歩みは、いまだ止まることはない。

Profile & Company

プロフィール

1942年、京都府生まれ。農家の長男として育つ。京都府立福知山高校商業科を1961年に卒業後、国税局に採用され、税務講習所(現・税務大学校)で1年間の研修を受ける。京都府内の税務署で徴収を担当したのち、1966年に大阪府内の税務署で法人税調査に転じ、1971年に国税局調査部へ。1974年から1年間、税務大学校本科で選抜研修を修了。以後、調査部を軸に、大阪府内の税務署で上席国税調査官・統括国税調査官、国税局の総務部会計課・調査部調査管理課で課長補佐、奈良県内の税務署で副署長を歴任。1995年に税務署長。国税局調査第一部の課長職、調査第二部次長を経て、1999年に再び税務署長を務め、2000年7月に退官。国税での勤務は39年に及ぶ。同年8月に税理士登録を行い、大阪市中央区に岡野税理士事務所を開設。2013年春、瑞宝小綬章を受章。退官後は、会員300人ほどの東OB会の会長を2年間、国税局調査部のOB会の会長を6年間務めた。現在はステラケミファ株式会社社外取締役(監査等委員)、金下建設株式会社社外取締役、レークスワンカントリー倶楽部(兵庫県加東市)理事長も務める。趣味はゴルフ、カラオケ、温泉巡り、スキー。座右の銘は「完全燃焼」。

会社情報

名称:岡野税理士事務所
所在地:大阪府大阪市中央区(要確認)
代表者:岡野 勲
所属:近畿税理士会
国税在職歴:39年(1961年〜2000年)
事業内容:
・税務顧問・税務申告
・税務調査への対応
・国際課税に関する相談
・税務相談

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